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志賀泉の「新明解国語辞典小説」

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とら

2010/06/04

とら【虎】
アジア特産の猛獣。背中から腹にかけて黄色の地に黒いしまが前後方向に対して直角に有る。口が大きく、鋭い牙(キバ)と爪(ツメ)を持ち、眼光が鋭い。皮は敷物などに用いられた。〔ネコ科〕

 ぼくの学校にはトラがいます。
 どうぶつ小屋をすみかにしているけど、かっているわけではありません。
 いつからトラがすみついたのか、わかりません。お父さんが小学校に入った時にはもういたというから、ずいぶんむかしからいるようです。
 お父さんが人から聞いた話だと、どうぶつ小屋にははじめ、うさぎとモルモットとインコがいました。ある日の朝、しいく係がエサをやりに小屋に入ったら、うさぎもモルモットもインコもいなくて、かわりにトラがねていたそうです。たぶん、トラがみんな食べちゃったのです。けれど不思議なのは、どうやってトラがどうぶつ小屋にしんにゅうしたのかで、なぜかというと、小屋にはカギがかかっていたからです。
 しいく係はびっくりして、しょくいんしつに走っていって先生にトラがいることを教えましたが、先生は学校にトラなんているはずないと言ってしんじませんでした。じっさいにどうぶつ小屋に行ってトラがねているところを見ても、いるはずがないものはいないのだと言いはって、だからぼくの学校にトラはいないことになっていますが、じじつとしてトラはいます。いるものはいるのです。
 ぼくがはじめてトラを見たのは入学式です。体育かんのえんだんの、校きを立ててある横にトラはねそべって、首だけ上げてぼくたちを見ていました。じっとしているので、はじめはかざりだと思いました。校長先生や、PTA会長も、トラをぜんぜん気にしていませんでした。そのうち、トラがうごいて前足をぺろぺろなめました。シタがすごく長かったです。ぼくはおおっと思いました。でも、先生や、ほかの子どもや、おとうさんやおかあさんが、みんな静かにしていたので、ぼくもだまっていました。本当はトラなんかいなくて、ぼくにだけ見えるまぼろしかなと、思いました。でも、入学式がおわったら、みんなが「あのトラすごかったね」とか「ネコみたいだったね」とか、ひそひそ話したので、やっぱりトラはいたんだと、ほっとしました。
 子どもぶんこで、トラについてしらべようとしたら、どうぶつずかんの、トラのページだけ、やぶけてありませんでした。
 トラは、夜はどうぶつ小屋でねますが、朝になると、学校のどこでも、じゆうに歩きます。朝礼の時とか、校長先生がお話しをしている台の下で、体をなめたりしてます。国きけいようとうを、ツメとぎの柱にしてます。ろうかを歩いてると、するどいツメがゆかを引っかく、カシャカシャという音がします。じゅぎょう中でも、きょうしつの後ろからのっそり入ってきて、つくえの間を歩きまわります。先生はなにも言いません。きょろきょろトラを見てると、よそ見をするなと、先生にしかられました。トラは、くんくん鼻をならして、ぼくたちの足のにおいをかいだり、つくえの中に鼻をつっこんだりします。つくえの中に、きゅうしょくののこりのパンをかくしていると、それを取って食べたりします。食べる時は、二本の前足でパンをおさえて、がつがつ食べます。食べ終わると、かならず、シタで鼻をなめてから、前足をなめて、それから、床に落ちたパンくずもきれいになめます。
 じゅぎょうをしている先生の横で、ねそべることもあります。トラはおとなしいので、先生はなにも言いません。あおむけになって、しっぽをふると、ネコみたいでかわいいです。先生が黒板をふいて、チョークのこなが顔に落ちてきて、トラはクシュンとくしゃみしました。ぼくたちはクスクスわらいました。先生はしずかにしなさいと言いました。
 ぼくたちはだんだん、トラのそんざいになれて、気にしなくなりました。でも、ろうかの手あらい場の下にいて、気がつかなくて、ぼくが手をあらってる時に、おなかをつっつくものがあるなと思って、下を見たら、トラと目があって、そんな時は、やっぱりぎょっとします。
 前に、じゅぎょう中に、おしっこがしたくなって、先生に言ってトイレに行こうとしたら、トラがろうかをふさぐようにして寝そべっていて、こまりました。どうしようかまよったけど、おしっこがもれそうなので、こわいのをがまんして、トラの後ろのほうを、しっぽをふまないように気をつけながら、とおりました。そうしたら、トラがのそのそついてきました。走って、トイレのうんちのほうに入って、カギをしめました。トラが、ツメで、ドアをカリカリ引っかく音がして、こわくて、トイレに入っているのに、おもらしをしてしまいました。休み時間になって、きょうしつにもどったら、みんな笑いました。
 ともすけ君が、ぼくのことを「しょうべんたれ」と言って、からかいました。
 次の日、ともすけ君はいなくなりました。トラが食べたのだとみんなうわさしました。でも、学校にトラはいないことになっているので、ともすけ君は転校だそうです。
 トラは、いじめっこを食べてくれます。でも、いじめられっこも食べます。いじめっこでもいじめられっこでもなくても、食べます。だから、だれでもいいみたいです。男の子でも女の子でも、太っててもやせてても、成せきゆう秀でも頭が悪くても、かんけいないみたいです。
 トラが子どもを食べてるところを見た人はいません。肉の食べのこしや、服のきれはしや、血のあとものこりません。でも、子どもがいなくなると、トラの口のまわりの毛に血みたいなものがついてるので、食べたんだなとわかります。でも、学校にトラはいないことになっているので、トラをたいじしようと考える先生はいません。いないものはたいじできないからです。トラは、大人を食べないので、先生はへいきです。
 トラに食べられた子どものせきには、よそから転校してきた子がすわります。それで、みんな、なんとなく、はじめからそんな子どもはいなかったんだなという気になります。
 おとうさんも、小学生の時、友だちをなん人か、トラに食べられたそうです。でも、おとうさんが言うには、がっこうにトラがいることが、きょういくいいん会にばれると、校長先生がクビになるので、かくしているそうです。でも、運動会や学習はっぴょう会に、きょういくいいん会の人も来るので、その時に、トラを見ていると思います。ぼくがそう言うと、おとうさんは、トラがいることが文ぶか学しょうにばれると、きょういくいいん会の人がクビになるので、やっぱりかくしているのだと、言いました。
 トラがいつまで学校にいるのか、わかりません。ぼくは学校を卒業したので、トラに食べられる心配はなくなりました。大学を卒業し、社会人になり、子どもの頃を思い返すたび、あのトラは何だったのだろうと、不思議になります。なんにせよ、トラのいる学校は僕にとって、遠い思い出になっていました。
 しかし、結婚して子供が生まれ、その子が学齢期を迎えると、虎の棲む小学校はあらためて現実問題として我が身に迫ってまいりました。
 先日、教育委員会の役人が我が家を訪問し、入学の手引きを置いて帰りました。虎について質問できる雰囲気ではありませんでした。出来れば、息子をあの学校に入れたくはありません。しかし義務教育は憲法によって定められていますし、息子を私立に入れるだけの経済的余裕は私にありません。息子を、私や私の父と同じ小学校に入れるしかなさそうです。それに、みんなが隠しているだけで、あるいは気づかないだけで、本当は、どの小学校にも虎が棲んでいるのかもしれないではありませんか。
 児童が虎に食べられるといっても、数としてはごく少数です。虎がいるから学校に行くなと言うのは、交通事故に遭うから道路を歩くなと言うようなものかもしれません。
 ただただ私としては、息子が虎に食われることなく無事に卒業してくれることを祈るばかりです。


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