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志賀泉の「新明解国語辞典小説」

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つや

2010/05/03

つや【通夜】
①仏堂にこもって一晩じゅう祈願すること。②死者を葬る前に、家族や親しい人たちが(法要を営んだ後)棺の前で一晩過ごすこと。つうや。

 これは実話です。僕がこう前置きするのはつまり、取り立ててドラマもないしオチもないことの言い訳なのですが、この話もそういうものとして読んで下さい。
 同じ職場のNさんは六十三歳です。今時、六十三歳を老人とは呼べないものですが、Nさんは老人です。実年齢より老けて見えます。頭髪が薄いとか、顔が皺だらけとかではなく、全身の脱力した雰囲気がなんともいえず老人なのです。特に定年を設けていない職場ですが、体力を要する仕事なので限界を感じた人は自ずと抜けていきます。もともと体の弱いNさんも本来なら限界を感じて然るべき歳なのですが、なにげなく生き残っています。気力で保っているわけではなく、逆に気力をぎりぎりまで落とすことで現状を維持しているようです。極力「がんばらない」人で、悪く言うと「てきとう」です。手を抜いているようでいて、そつなく仕事をこなします。消え入りそうなくらい影が薄いのに、その影の薄さで逆に目立っているという、不思議な存在感のある人です。
 Nさんが今の仕事をする前になにをしていたかは知りません。人づてに聞いた話では波乱に富んだ人生だったようです。その波乱は終わったわけではなく、老母は痴呆が進み、娘は離婚して二人の孫を連れて出戻り、息子は鬱病で入院中と、気の休まることがありません。まさに火宅の人です。
 仕事がことに厳しかった日、休憩時間に「地獄だ」と誰かがふと漏らした言葉に、Nさんが「地獄はこんなもんじゃねえよ」と静かな声で応じたことがあります。その場がしんと静まりました。冗談に聞こえなかったのです。それでもNさんに悲惨の影はなく、基本、飄々としています。きっと、地獄は地獄として受け流す術を心得ているのでしょう。
 あえて弱くあることで逆にそれを強みに変えてしまう。Nさんはある意味、人生の達人と言えます。

 先月、Nさんのお兄さんが亡くなりました。病名は聞いていませんが、病死です。長患いだったので、おそらく癌だったのでしょう。
「子供はみんな独立してるし、奥さんも元気そうだし、大丈夫なんじゃないかな」と、哀しみの色も見せず、まるで他人事のような、自分自身すら他人事のような、淡々とした口調で話していました。
 そのNさんから聞いた話です。
 お通夜の翌日、Nさんはくたびれて、本葬に入るまでの空いた時間に仮眠をとっておこうと、縁側で寝ていたそうです。
「いやあ、急に息が苦しくなってさあ、目覚めたら、靄がかかったみたいに目の前がまっ白なんだよ。びっくりしちゃってさあ。気がついたら、俺の顔に白い布がかかってたんだよな。なんだこりゃあって、布を払い除けたら、お袋が枕元に座って俺を拝んでたんだ。こうやって、手を合わせて。『母さん、俺はまだ死んでねえよ』って言ってもきょとんとしてさ。俺のお袋、もう頭が惚けちゃってて、俺を兄貴と勘違いしてたんだよな。いやもう、笑うしかないね。俺と兄貴、顔が似てっからさ。女房が飛んできて、『お婆ちゃん、死んだのはお兄さんでしょ。昨日お棺に入れたの、お婆ちゃんも見てたでしょ。ちゃんとお通夜をして、お兄さんは斎場にいるのよ』って、細かく説明しても、まだ納得しなくて、俺の顔を指差してごにょごにょ言ってるんだから、困っちゃったよ」
 Nさんは煙草をふかしながら、はっはっは、と息が抜けるような笑い方をしました。僕もまあ、可笑しかったのですが、いっしょに笑うのは不謹慎なような気がして「大変ですね」と、ありきたりな言葉を口にしました。
「いやあ、しょうがないよ。お袋はもう惚け惚けなんだから」
 死んだ長男はお母さんと同居してましたから、お母さんの頭の中には長男がいるだけで、次男がいたことは忘れてしまったのでしょう。顔の似ているNさんを長男と間違えるのは無理もありません。死んだ息子がなぜ縁側にいるのかという疑問も抱かずに、死に顔が剥き出しと見れば白布で覆う。そうせずにいられない。死体が起き上がろうと、しゃべろうと、そんな矛盾はおかまいなしに、お母さんにとってNさんは死んだ長男以外の者ではないのです。
 惚け老人のすることと、笑い話にしてしまえばそれまでですが、考えてみれば気味の悪い話です。
 その後、Nさんはお母さんを引き取り、「介護」という新たな重荷を背負うことになりました。介護の日々は大変そうですが、それでもNさんの口調に深刻さはありません。
 一見、穏やかそうに見えるNさんですが、その眼は荒涼としています。荒れ地に光が差しているような、静かな荒廃です。
「いやあ、お通夜の場面がお袋の頭にこびりついてるんだろうね。俺、お袋と同じ部屋に寝てるんだけどさ、たまにお袋が夜中に起きだして、俺の顔に白いタオルをふわっとかけるんだよ。そのたび飛び起きるんだけどさ。なんか、まだ俺のことを兄貴と勘違いしてるみたいだな。『止めてくれ』って言っても拝んでんだから、俺を。ははっ。それが毎晩なんだから参っちゃうよ。このところ家じゃ毎晩お通夜だ」

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