トップ > ブログ de グランプリ > 志賀泉の「新明解国語辞典小説」

志賀泉の「新明解国語辞典小説」

<<メインページ

つくねんと

2010/05/03

つくねんと
何をするでもなく、ただひとりじっとしている様子。

 つくねん。
 駅のホームでつくねん。
 コンビニの駐車場でつくねん。
 新宿の地下道でつくねん。
 上野の西郷さんの前でもつくねん。
 どこにいてもつくねん。
 俺。
 気がつけばほうけて。途方にくれて。光はいつも斜め上から、人を見下げて。どんなに着込んでようと裸に剥かれて。
 俺のいる場所、六畳一間。爪切り、耳掻き、歯ブラシ。なにもねえ。窓にカーテンもねえ。陽射しは容赦なく、俺の影、真後ろの壁に落ちて、焦げ付くまで。

 そう言えば俺は自分の眼で自分の背中を見たことがないのだった。死ぬまで見ることはないだろう。それが俺という人間の不完全さの証明なのだ。でもこれは俺に限ったことじゃない。

 なにもない部屋。コンビニ弁当を食べて、殻だけが残って。箸の先に付いた飯粒に陽が当たって、ひりひり、かわいていく。俺もかわいてきた。
 畳にさす光。畳の目ひとつひとつ、やけにくっきりとして、ささくれて、けば立って。長年、俺の体から剥がれ落ちた細胞が死んで畳の目に染み付いているから、この六畳は俺の肉体だとも言える。俺が去っても俺そのものとして部屋は残るのだ。俺以上に存在の輪郭をくっきりさせて。
 板場で包丁を研いでる俺。
 配電盤を開いて接続を点検してる俺。
 戦闘服で匍匐前進する自衛隊員の俺。
 ストリート・ミュージシャンとしてつまらない脚光を浴びてる俺。
 あの時ああしていればこうなっていた俺が世界のいたるところに遍在する。その俺らがいっせいにへたりこむ。つくねんとしてしまう。
 嘘をつくねん。
 餅を搗くねん。
 舟が着くねん。
 霊が憑くねん。
 なにさらすねん。
 むかしむかし、『あしたのジョー』の矢吹丈は力石徹の死亡記事を前に連日つくねんとしてまるで死んだようだったが、業を煮やした丹下段平に「どこまで堕ちれば気がすむんだ」とどやされ「ここまでだ」とひと言、死亡記事を破いて立ち上がったのだった。その場面にいたく感動した子供の俺は大人になり「ここまで」と言える地点まで堕ちていこうとしたものの「どこまで?」と言ってくれる他人がいなければ「ここまで」と言えるきっかけもなく、ずるずると堕ちていくだけなのだった。
「どこまで?」誰も言ってくれないのなら自分で言うしかない。「どこまで?」
「ここまで」俺は答えるだろう。
 奈落の深さに比べたら人間一個の堕落なんてたかが知れてる。まして俺のすること。
 だから自分で言うのだ、「どこまで?」と。さあ、言え。
 そう念じながらいまだ、つくねんとしている。
「ここまで」と言える、あと一歩の距離が永遠に遠い。

<<メインページ