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志賀泉の「新明解国語辞典小説」

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ちのしお

2010/04/12

ちのしお【地の塩】
〔キリストの教えで〕塩が食物の腐るのを防ぐように、この世の不正や腐敗を見逃すことの出来ない健全な人びとをたとえて言う語。

 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。             (マタイによる福音書 第五章十三節)

 ああ、くそ。舌が届かねえ。目の前に塩。山のように盛られて、雪山。ちょっと見、風流。なわけねえか。くそっ。
 舐めてどうすんだって? しょっぱいよ。そうさ、喉が渇いて後悔する。いいじゃん、後悔先に立てて思いっきり後悔してやる。悪いか? 悪いよ。悪くたってかまうか。じゃあ舐めろよ。だから舌が届かねえんだよ、ばか野郎。ばかって誰が。お前が。お前って誰だよ。俺だよ。そうだよ俺だよ、犬侍だよ。
 だからあ、問題は、なんでこの俺が都会の真ん中の道路に沿った細長い公園の植え込みに首だけ突き出して生き埋めになってるかなんで、「お花を大切に。エコエコ大作戦実施中!」なんて阿呆なプレートの横で、まるで晒し首じゃん。お化け屋敷の生首じゃん。目の前の往来を人は足早に通行する。会社帰りなんだか夜遊びに行くんだかぴかぴかに磨いた靴で。ああ、目と鼻の先に小市民の平和があるというのに俺は人知れず地獄。草葉の陰に隠れた俺に誰も気づかぬ。
 助けを呼べって? 言えますか? 言えませんよこんな姿で。はっきり言って人間以下だもん、今の俺。おめおめ恥をさらすなら死んだほうがまし。どうせ死ぬならせめてもの願い、目の前の盛り塩をひと舐めして美味かろうが不味かろうが不味いに決まってるんだが今生の別れにひと舐め味わって死にてえ。
 だから舌が届かねえんだよ。なんでそうこだわるのかって、そうだよ、腹が減ったんだよ。腹が減って悪いか。生き埋めにされたって腹は減るんだ。
 くそう、身動きとれねえ。耳の穴が痒い。小便してえ。

 なんでこうなったかって、あの爺いだ。てめえの骨壺みてえに大事そうに壺を抱えて歩いてた爺いだ。その爺いがだ、やおら壺に右手突っ込んで白い粉をひとすくい。ぱっと路上に撒きやがる。おっ、花咲か爺いだ、と見てる間にまた壺に手を入れぱっと撒き散らす。周りを見ずにやたら撒き散らすから、ほら、いわんこっちゃない。白い粉が通行人の洋服にかかり、怒鳴られる、叱られる。それでも爺い反省の色がない。ああ、いかんね、あれは。なんの粉か知らんが、ひとつ意見してやろう人として正しい道に導いてやろうと近づいた俺の顔にも正面からぱっとひと振り。ぱらぱら、塩味。
 あ、なんだ塩じゃん。塩ね。塩ならね、食材だし、環境にやさしいし、お浄めになるし。ああそうか、この人は汚れた都会を浄めているのだなと合点し、そう言えばむかし弘法大師も乞食に身をやつして諸国をあんぎゃ、人助けをしていた。この爺いも実は高僧かもしれん。なあんだいい人なんだと納得し立ち去ろうとしたところへ、もう一度ぱっ。気がつけば爺い、俺を睨んでやがる。もっとも俺を見据えるのは右目のみ。左目は自制ができぬのか、灰色に濁った瞳が魚のように泳いでおる。うごめいておる。おぞましさに俺はきびすを返した。
 しかし問題は塩。衣服に付着した塩の粒々をつまんで味わううちに俺の空腹が呼び覚まされ、ひもじさに耐えかねて百円ショップに駆け込み食料を買おうとしたらあぎゃあ、驚いたね、乾電池を買ってんの、俺。単2形二個ワンセット百五円。これで所持金七円。
 そうなんだよ。警棒、じゃない誘導灯の電池が切れてライトが点かぬ。こいつは俺の命だから。プライドそのものだから。早く電池を新品と交換せねばと気がかりだったゆえ、食品売り場の手前にある雑貨売り場で足が止まりついつい手を伸ばしてしまったのが電池。食えない電池。
 いいさ。ほら、「人はパンのみに生きるにあらず」って言うし。

 かしこいね、俺は。どうして俺がかような聖書の言葉を知っておるのかというと耶蘇教会にいたからだ。雪の降りしきる東北の地で行き倒れた俺を拾ってくれたのは耶蘇教会の神父。パンをくれたね、あと、バターも。干し藁(わら)の匂いがすると思って目を上げたら藁束を組んで十字架にしていた。東北という土地柄だろうか、ちょっと嫌だった。
「人はパンのみに生きるにあらず」神父は言った。
「野菜も必要ですよね」と俺。遠慮して「肉」とは言わずにおいた。
「労働せいよ」
「は?」
「働かざる者食うべからずって言うだろうが」
「へ?」
「一宿一飯の恩義って言うだろうが」
「はあ」
 そういう経緯で俺は耶蘇教会の世話になり、スコップを手に教会の周辺を雪掻きして過ごした。春になり、すっかり耶蘇臭くなって東北を離れたが、記念に頂戴したスコップを背中に紐でくくりつけ、「力仕事引き受けます 一時間五百円」と書いた札をぶら下げて歩いていたら、東京に戻る道々これが意外と商売になった。畑仕事。庭の手入れ。犬の散歩。婆さんの肩たたき。少なくとも食うには困らなかった。しかし東京に入るやいなや人情は薄れ世知辛くなり、誰も俺を呼び止めてくれぬ。雇ってくれぬ。ひもじい日々を過ごし誘導灯の電池交換すらままならなかった。
 いいさ、それでも、生きてさえいれば。人間真正直に生きていれば、ほらね、誘導灯に光がともった。きれいだね、たのもしいね。人はパンのみに生きるんじゃないんです。

 しかしパンなしじゃ生きてけないのも真理であって、ひもじさが胃をきりきり絞る。
 駄目もとで「労働いかがっすかー」と声を上げながら歩いていると、やっぱり言ってみるもんだね、声をかける者がいる。あまり健全でなさそうな青少年が四、五人、道端の公園にたむろって薬物をきめているのかきゃはきゃは笑っておる。
 しかし金さえくれるのであれば相手がガキだろうと畜生だろうとお客様。それは俺が長旅でつちかってきた商売の極意であって、「へい毎度」と低姿勢で歩み寄ったら「毎度じゃねーよ、ばーか」の返事。ばかにばか呼ばわりさせる筋合いはない。どうせホームレスなどいたぶって嬉々としておる輩だろう。成敗いたす。
「外道めら」と紐を解き背中のスコップを下ろした。そこまでは覚えている。気がつけば己がスコップで土中に埋められていた。くるし。土の湿り気が衣服を透してじわじわ肌に染みる。耳が痒い。せつない。

 先刻の塩壺爺いが引き返してきた。爺いとすれ違うたび通行人が「わあ」とか「きゃあ」とか叫んでおる。あの爺いが乞食に身をやつした僧侶なら必ずや俺を窮地から救ってくれるはず、と期待したのは嘘だが、ああいう奇人のほうが声をかけやすかったのだ。
 一縷(いちる)の望みを託し、「あのー、すいません」と俺は控えめに爺いを呼び止めた。
「おどかしてすいませんがね。あの、ちょっと埋められちゃったもんで」
 爺いに驚いた様子はない。眉ひとつ動かさず、人語を話す石でも見るように俺を見据える。相変わらず左目ばかり灰色の瞳があっちゃこっちゃ動いて。
「申し訳ないんですがね。そこに転がってるスコップで掘り起こしてもらえないかな。手さえ自由になれば、後は自分でなんとかしますんで」
 爺いは俺の言葉を理解したのだろうか。
 爺いはおもむろに俺の前にしゃがみ、そこで俺は初めて気づいたのだが爺いのズボンの股下が破れて見事な陰(いん)嚢(のう)が二個ともはみ出し、俺の目前に迫ってきた。しかし俺は縋れるものなら陰嚢にだって縋りつきたいのだ。
 爺いは俺をしげしげ観察し、何を勘違いしたのだろうか。塩壺から塩をつまみ、俺の目の前に盛ると手を合わせてしばし拝み、無言で立ち去っていった。

 あれから小一時間がたつ。状況は一向に好転しない。好転の気配もない。
 あらゆる兆候が俺に死を指し示す。
 犬だよ、俺は。地面から二十センチほどの高さに俺の目があって、まさしく犬の眼差しだ。ああ、犬はこんな目で世間を見てたんだよなあ。人の顔が見えん。話し声はへらへら、どこか浮ついて。靴、靴、靴、靴。乾いた靴音が俺を足蹴にする。そうかあ、人間てみんな靴履いてんだよなあ、って当たり前か。でもなあ、こんなに人がいるんだから一人ぐらい裸足がいてもいいんじゃねえの。靴履かなきゃ人間と認められないの? ひとでなしなの? おっかねえだろ、あんな先が固くて尖ってて。なんか、口で笑ってても靴は攻撃的なんだよ。上半身は友好的でも足下は見え見えなんだ。隙ありゃ他人の向こう脛を蹴飛ばしてやろうって魂胆が無意識に靴に出る。蹴ろよ。かまわねえから蹴ろよ。みんな互いに蹴って蹴り合って脛からだらだら血を流してそれでも顔に愛想笑いを浮かべて「明日もよろしくね」。「いえいえこちらこそよろしく」
 ちくしょう。腹が立ってきた。忘れてたよ、俺は。なんか意気が上がんねえマイナス思考から抜け出せねえと思ったら歌だよ。歌を忘れてたよ。長渕剛。俺のテーマ曲。「とんぼ」。歌った。草葉の陰から。埋められたまんま、大声。おうおうおうおおおうおおー。
 歌声に地の塩が散った。
 たちまち阿鼻叫喚。驚愕した通行人が我先に逃げていく。そりゃそうだ。地面に転がった生首が歌い出したら誰だって取り乱す。気が狂う。かまうか、やわな小市民め。日頃からてめえの足下に気をつけやがれ。地獄はてめえの足下に転がってんだよ。

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